学習能力
個別指導の明光義塾 村上教室

徳川3百年の礎を築く
『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす』
天下が転がり込んでくるのをボーっと待っていたわけではないでしょうが、江戸幕府を開いて戦乱続きだった日本を安定させたのは徳川家康でした。その生涯には数えきれないほどのエピソードがありますが、今日は家康の学習能力について取り上げていきます。
戦国大名が覇権を争っていた時代、何かを学ぶ手段としては、書物を読んで知識を広げるか人に会って教えを乞うしかありませんでした。家康はそのどちらについても非常に熱心だったといわれています。書物は、『論語』『中庸』など中国の書物、兵法書、歴史書などを好んで読んでいたようです。また、読むだけでなく、自ら指揮して本を出版しています。『学ぶ』ということに非常に前向きだったのが分かりますね。そして、学んだことを実践する実学主義者でもありました。テレビドラマなどで、家康自ら薬を調合するシーンを描くことがありますが、学んだらすぐに試してみる家康らしいエピソードです。
単に学ぶという視点ではなく、『学習能力』という部分に着目してみると『鳴くまで待とう』がより深く理解できるかもしれません。三河国の小大名だった家康は、天下人になるまで決して平坦な道のりではありませんでした。今川氏から独立した後も、周囲には武田・北条といった強国があり、常に自国領を侵される危険にさらされていました。戦は決して連戦連勝とはならず、武田氏に対しては幾度となく敗戦を経験しています。その敗戦の中で最も有名なのが『三方ヶ原の戦い』です。武田氏の陽動作戦でおびき出された徳川軍は、武田軍に決戦を挑みますが大敗を喫します。命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、すぐに絵師を呼び自分の肖像画を描かせます。無謀な戦いに挑み、多くの家臣の命を失い、何も得るものの無かった自分を肖像画として残したものだといわれています。負けて命の尊さを知り、戦の無益さを学び、自分の力の無さを痛感したに違いありません。これ以後、家康は決して無理な戦いを仕掛けません。織田信長が本能寺で倒れたあとも、羽柴(豊臣)秀吉の勢力が大きいと思えば秀吉に臣従しています。本拠地の三河から遠く離れた江戸への転封も素直に受け入れます。その後は、耐えに耐えて天下人となった秀吉に尽くしていきます。秀吉亡きあとも、すぐに豊臣氏に敵対するわけではありません。じっくりと支持者を集めて自分が国の中心に立つ準備を進めます。そして、いよいよ自分が最大勢力になったことを確認して、豊臣氏から天下人の実権を奪うことになります。三方ヶ原の敗戦から多くの学びを得て、自分が頂点に立てる『時』を待った家康。『鳴くまで待とう』は、家康の学習能力の高さを物語る重要なキーワードといえるでしょう。
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